東大寺には、「蘭奢待(らんじゃたい)」と言う秘蔵の香木がある。この黄熟香は熱帯アジア産のいわゆる沈香(じんこう)で、その文字の中に東大寺を隠した雅名である。沈香とはジンチョウゲ科の木の幹に樹脂や製油が付着したもので、重くて水に沈んでしまうところからその名があると言う。 織田信長は、尾張の国主であった頃には藤原姓を名乗っていたが、上洛の後「平」を名乗った。武家社会の源平思想の中で、室町(足利)が「源」であったのに対してのことだ。しかしこれがあだとなり、将軍の座に着くのを妨げられたのである。この不満をぶつけたのが、「蘭奢待所望」であったという。 現在蘭奢待には、足利義政・織田信長・明治天皇がこれをきりとった旨の付箋がある。しかし記録によると、足利義満・足利義教も切り取ったようだ。足利義政は、京都東山に銀閣寺(慈照寺)を建て、わび・さびの東山文化を開花させたので有名だ。足利義満は、南北朝を統一し、室町の最盛期を築きあげた三代将軍である。金閣(鹿苑寺)を京都北山に建立し、北山文化を創出した人物でもある。 いずれにしても、自分の権勢を誇示する方法のひとつとして行ったようだ。信長が「蘭奢待」を所望したのは、浅井朝倉は討伐したが本願寺とはまだ対立中のことだった。このときは、まだ朝廷や公家も信長に対し、決定的には服従していない。したがって、征夷大将軍も与えずにおけたのだろう。しかしその後、武田勝頼を滅亡させ凱旋してくるとそうも行かない。東国を平定しては「征夷大将軍」を推任せざるを得ない。朝議では、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任官させる事が決まったいたらしいが、信長は授官を拒否したという。さて、その心中はいかに。しかしこの後本能寺の変が起きるので、彼の心中は誰にもわからなかった。信長がもう10年生きていたら、日本はどうなっていただろう。世界もかなり変わっていたかもしれない。しかし、歴史に「たら・れば」はないのである。人生にも、「たら・れば」はないのであるよ。 |