五木寛之[2002/07/06・Vol.11 日ノ影村の一族]



てんてるぼうず、てるぼうず...

 てるてる坊主ではない。「天照亡ず」なのである。
この《日之影村の一族》と言う小説は、九州を舞台としている。
大和朝廷以前から日本で暮らしていたクマソ・ハヤトなどと呼ばれ蔑まれてきた人々を題材としている。
 日本は単一民族国家と言われることがあるが、それはある時代から複合していないにすぎない。神武天皇(前660)の遙か前から、日本の各地方で生活していた人々がいる。その地方地方でまつられていた神がある。それらの民族に対して、武力や懐柔でまつろわせてきたのが天皇を頂点とする国家ではあるまいか。
また、その手段として用いられたのが仏教であるとさえ言えるだろう。

 本来の意味での(宗教としての)仏教は、確かにすばらしいものがある。しかし、日本各地の固有の宗教にも、すばらしいものが沢山ある。けれどそれらを認めてしまうと、国家として民を纏めていくのは難しくなる。現代でも中東を見れば判るだろう。
宗教の違いによるお互いの無理解は、恐ろしい結果を生んでいる。日本の場合、国家統一の手段として仏教は、その時々の権力者にとって、相手を倒すための手段や口実に大変利用しやすい。そういったことが、日本の北から南まで各地で行われてきた。

 最近読んだ『炎立つ』も蝦夷の話だ。東北にも「まつろわぬ人々」がいた。今まで日本の歴史の中では、戦国時代をよく読んだ。
そのころの時代背景や登場人物達は結構知っている。しかしそれ以外の時代について、自分はなんと知らない事だろう。
 この『炎立つ』は、作者高橋克彦の史観がかなり強く、現在の一般的な歴史観とは若干違うかもしれない。
しかし、物事はどちらから見るかで全く変わってしまう。自分たちはそれぞれに正しいと思っているのだ。
けれど、振り返った時には勝者の歴史なのだ。勝った側に都合がいい資料が残されている。
それでも、その合間合間には繕いきれない「まつろわぬ人々」の生活や考え方や歴史が見え隠れしてしまう。
そんなことを、もっともっと知りたい。
「無知の知」、自分がいかに物事を知らないか、「無知」の自覚が必要だ。

 そんな大げさでなくても、人と思い違いをすることがある。反省すべきことも沢山ある。
何気ない言葉で人を傷つけることもある。思いやりのない事もある。時にはその事に気がつかない振りをしている自分さえいる。
まだまだ、大人とは言えない自分に気づくのであった。



Data:日ノ影村の一族
文春文庫「い-01-21」、昭和56年10月25日発行
昭和56年→1981年