展覧会[2005/05/06・Vol02 ゴッホ展]




彼の生涯で唯一売れた絵〈赤い葡萄畑〉

  ゴッホを見た。それも、彼の初期の作品から後期までの30点を一同に。彼が画家になろうと決意したのは27歳の夏だった。それまで一心に志した伝道師の道は、熱心すぎるあまり、資格を与えられることなく挫折した。1880年の頃である。その頃の彼の画題は、農民の生活が主だった。生活に根付いたもの、地に足が着いたもの。そんな現実をハーグで描いていた。その時代の1枚が〈開かれた聖書のある静物〉である。これは、ドラクロワの「画家は、灰色でも色白の美しい女性を描くことができる」の言葉の秀作だ。その実験として、ページの四隅の白い部分は灰色に塗った。それでも白く見える事で、彼は補色を学んだのである。選んだ画題は、「聖書」だった。
 その後ニューネンに移り、マルホ・ベーヘマンとの恋に落ちる。しかし、両家の反対でマルホは服毒自殺を図る。傷ついたゴッホはアントワープへ移り、二度と祖国オランダに帰ることはなかった。1886年の3月にパリを訪れ、テオとの暮らしが始まる。この頃に描いた〈古靴〉。ミレーの影響を強く受け、今までの農民を主題としたものではなく、彼自身の放浪とか人生を描いたものだと言われている。パリでのゴッホは、ロートレック・シニャック・ゴーギャンらに出会った。ジャポネズリーに傾倒し、浮世絵の強い影響を受ける。
 1888年2月、アルルに到着したゴッホは〈黄色い家〉を借りる。ゴーギャンと一緒に暮らしたのは、10月から12月だった。この頃が、ゴッホの生涯の中で唯一幸せな時期だったのではあるまいか。そんな気持ちにさせてくれる1枚が〈夜のカフェテラス〉である。
 しかし、ユートピアを目指していたが、ゴーギャンとの確執で耳切り事件を起こしてしまう。その後、彼は糸杉や麦畑を画題としている。〈糸杉と星の見える道〉は、ある意味、彼の自画像であり、彼の人生でもある。そして1890年、彼の生存中に初めて売れた絵が〈赤い葡萄畑〉だった。しかしその年、ゴッホは自らの胸をピストルで撃ち、37歳の生涯を終える。
 画家になって10年。その間に2000枚を越える絵を描いたゴッホ。所謂ゴッホのタッチになってから3年弱。彼は、そのわずかな時間に人生の全てをかけ、絵を描き続けた。そう、自分の人生を削り、描き続けた。
 「ともあれ、僕は、僕自身の作品に対して人生を賭け、そのために僕の理性は半ば壊れてしまった―それもよい―」